夢見ていたスウェーデンでの生活がついに始まりました
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この時期、同時に進められたのがミリオンプログラム
と言われるさらにスケールの大きい郊外の開発。
1964年頃に計画が打ち出され、70年代前半には完成。
未だに移民問題と絡んで問題となっている地域が多く、
反省点が多い都市計画であったと言われています。
(Tensta in Stockholm)
当時の社会背景は、移民の流入とともに人口が増え、
それまで以上の住宅不足に陥りました。
そのためにスウェーデン全体で百万戸の住宅を
数年の間に作る事を目標にかかげ、できるだけ
早く、安く、アパートを量産する必要があった。
それを可能にするためには、やはり建築の画一化が
さらに進められ、建物の素材、設計から、中庭等の
外部空間、駐車場から玄関までの道路付けまでもが
規格化され、それを異なる地域にそのまま造る
というような方法が取られていきました。
(Rosengård in Malmö)
そのために地域の特徴、地域性と行った事は
完全に無視され、規格にのっとって出来上がった
住宅団地が設置されるという結果に。
またこれらの地域は都心部から離れている事が多く、
車の利用を考えて道路が設計されたため、
道幅が車スケールになり、主要道路が団地内を
突っ切るように走り、その上を歩行者用の橋が
かけられ、それによって空間さえも分断されました。
そのような中では家から最寄り駅、バス停もしくは
お店のある場所までの距離が長く、
歩行者には動きにくいような空間になっています。
ただ、同じ時期に建てられた郊外でも
その後強く批判された場所と
そうではない場所があります。
批判の対象になっているのは、やはり
後々、移民が多く住み、治安が悪く
なってしまっている場所。
(Tensta 新しい広場の設計/イベントが行われたりする)
(Skärholmenのリノベーション計画
写真左*手前がリノベーション前、奥がその後
写真右*それと同時に中庭の新しい設計も有名なアーキテクトをよんで行われた)
けれど、そう言った地域も放置するのではなく
建築家を招いたり、アートイベントを行ったり
改善策を試行錯誤している様子が見られるのは
さすがだなーと思います。
まぁ、簡単に解決する問題ではないのですが
今後改善されるのか、気になるところです。
と言われるさらにスケールの大きい郊外の開発。
1964年頃に計画が打ち出され、70年代前半には完成。
未だに移民問題と絡んで問題となっている地域が多く、
反省点が多い都市計画であったと言われています。
(Tensta in Stockholm)
当時の社会背景は、移民の流入とともに人口が増え、
それまで以上の住宅不足に陥りました。
そのためにスウェーデン全体で百万戸の住宅を
数年の間に作る事を目標にかかげ、できるだけ
早く、安く、アパートを量産する必要があった。
それを可能にするためには、やはり建築の画一化が
さらに進められ、建物の素材、設計から、中庭等の
外部空間、駐車場から玄関までの道路付けまでもが
規格化され、それを異なる地域にそのまま造る
というような方法が取られていきました。
(Rosengård in Malmö)
そのために地域の特徴、地域性と行った事は
完全に無視され、規格にのっとって出来上がった
住宅団地が設置されるという結果に。
またこれらの地域は都心部から離れている事が多く、
車の利用を考えて道路が設計されたため、
道幅が車スケールになり、主要道路が団地内を
突っ切るように走り、その上を歩行者用の橋が
かけられ、それによって空間さえも分断されました。
そのような中では家から最寄り駅、バス停もしくは
お店のある場所までの距離が長く、
歩行者には動きにくいような空間になっています。
ただ、同じ時期に建てられた郊外でも
その後強く批判された場所と
そうではない場所があります。
批判の対象になっているのは、やはり
後々、移民が多く住み、治安が悪く
なってしまっている場所。
(Tensta 新しい広場の設計/イベントが行われたりする)
(Skärholmenのリノベーション計画
写真左*手前がリノベーション前、奥がその後
写真右*それと同時に中庭の新しい設計も有名なアーキテクトをよんで行われた)
けれど、そう言った地域も放置するのではなく
建築家を招いたり、アートイベントを行ったり
改善策を試行錯誤している様子が見られるのは
さすがだなーと思います。
まぁ、簡単に解決する問題ではないのですが
今後改善されるのか、気になるところです。
この頃になると地下鉄の整備とともに
開発もどんどんと郊外の方へ広がって行きました。
この時に影響を受けたのが、イギリスで流行った
ネイバーフッド、またはコミュニティセンターと言う考え方。
これは、住宅団地の中に住民の集える公共空間、
つまりは図書館のような施設や広場、学校や
診療所等サービス、さらに日常に必要とされる
商業施設を一つの郊外住宅団地内に置くということ。
今までアパートの一階に配置されていた店を
広場の周りに集中させ、人の集まる空間を
作りだすという事も考えられていました。
(Årsta centrum designed by Tore and Erik Ahlsén)
初めて実際に設計されたのが1944年に建てられた
オーシュタセントラル。しかしセントラルが建てられたのが
実際の人々の生活圏内からずれていた事や、
すぐ近くに交通の要所とされるGlummarsplanがあった
ことなども理由になり、この考え方はあまり現実には
発展して行かなかったようです。今も広場は残っていますが。
それが更に発展したのがABC-samhällerという考え方。
A=arbete(work) B=bostader(live) C=centrum(Cneter)、
つまり、仕事場と住居そして公共施設を一つの
郊外団地内に作るというもの。そして郊外の
ベッドタウン的構造を変え、通勤による移動距離を短くし、
効率的な都市計画を作りだすのが理想でした。
(Vällingby centrum 商業施設が集まる地下鉄駅周辺
奥に見えるのが住宅群)
ストックホルム郊外ではこの時代はVällingbyが
唯一の事例と言われています。
しかし、仕事をこの地域で得ても、同時に住居を
確保するというのは当時難しく、結局は他の地域に
住む人がここにきて仕事をし、地域内に住む人は
市内へと通勤する事の方が多くなってしまいました。
その後、ストックホルム郊外として開発されたのは
Farstaと呼ばれる場所でしたが、この時にはすでに
仕事場を抜いたBC samhällerの考えに基づいて
計画され、企業をうまく誘致することはできなかった
と言われています。
(Vällingby centrum K-fem
2008年にオープンした新しいショッピングモール)
今でもこういったエリアには、多くの人が住み
またショッピングセンターが残っており
それを生かした独自の発展が考えられています。
開発もどんどんと郊外の方へ広がって行きました。
この時に影響を受けたのが、イギリスで流行った
ネイバーフッド、またはコミュニティセンターと言う考え方。
これは、住宅団地の中に住民の集える公共空間、
つまりは図書館のような施設や広場、学校や
診療所等サービス、さらに日常に必要とされる
商業施設を一つの郊外住宅団地内に置くということ。
今までアパートの一階に配置されていた店を
広場の周りに集中させ、人の集まる空間を
作りだすという事も考えられていました。
(Årsta centrum designed by Tore and Erik Ahlsén)
初めて実際に設計されたのが1944年に建てられた
オーシュタセントラル。しかしセントラルが建てられたのが
実際の人々の生活圏内からずれていた事や、
すぐ近くに交通の要所とされるGlummarsplanがあった
ことなども理由になり、この考え方はあまり現実には
発展して行かなかったようです。今も広場は残っていますが。
それが更に発展したのがABC-samhällerという考え方。
A=arbete(work) B=bostader(live) C=centrum(Cneter)、
つまり、仕事場と住居そして公共施設を一つの
郊外団地内に作るというもの。そして郊外の
ベッドタウン的構造を変え、通勤による移動距離を短くし、
効率的な都市計画を作りだすのが理想でした。
(Vällingby centrum 商業施設が集まる地下鉄駅周辺
奥に見えるのが住宅群)
ストックホルム郊外ではこの時代はVällingbyが
唯一の事例と言われています。
しかし、仕事をこの地域で得ても、同時に住居を
確保するというのは当時難しく、結局は他の地域に
住む人がここにきて仕事をし、地域内に住む人は
市内へと通勤する事の方が多くなってしまいました。
その後、ストックホルム郊外として開発されたのは
Farstaと呼ばれる場所でしたが、この時にはすでに
仕事場を抜いたBC samhällerの考えに基づいて
計画され、企業をうまく誘致することはできなかった
と言われています。
(Vällingby centrum K-fem
2008年にオープンした新しいショッピングモール)
今でもこういったエリアには、多くの人が住み
またショッピングセンターが残っており
それを生かした独自の発展が考えられています。
真面目な話の続き・・・
■■■
1940年代に入っても住宅不足は改善されず
効率化がさらに重視され”punkthus”と呼ばれる
高層のアパート(8-9階)が建てられるようになりました。
(Västra skogen punkthus)
縦長の建物はエレベーターが一つですむし、
どの部屋にも光が入りやすいということで、人気に。
またこの当時、世界的に広まったルコルビジェの著書
【輝く都市】で言われているような考え方も影響している
と言われています。どういうことかと言うと、
公園の中に建物が存在しているという構図。
つまり建物の敷地面積を減らし、その分階を増やし、
上へ延びて行く事で、周囲の自然環境をできるだけ
確保することができる、という考え方です。
日本の団地もこういう意図のもとに建てられたはず。
この考え方は自然が多くのこされている
ストックホルムに新たに住宅地を建設するにあたって、
受け入れやすい考え方で、建物が緑に
囲まれている環境は好まれました。
(Gärdetエリア。この時期に建てられた典型的なエリアの一つ。
低層とpunkhusが混在し、さらに建物の間に多くの緑地が確保されている)
*写真がみずらいのが申し訳ないのですが…
他にもこのpunkthus型のアパートは遠くからでも
目立つのでストックホルムのいたるところで
見られます。低層のアパートややたら長いアパート
と一緒に建てられていることが多いかも。
いいアクセントになるのかな。
この辺りまでの都市計画は今でも比較的、
批判が少ないように思います。
でもこれでも住宅不足は解消されず
さらに先へと進んで行きました。
■■■
1940年代に入っても住宅不足は改善されず
効率化がさらに重視され”punkthus”と呼ばれる
高層のアパート(8-9階)が建てられるようになりました。
(Västra skogen punkthus)
縦長の建物はエレベーターが一つですむし、
どの部屋にも光が入りやすいということで、人気に。
またこの当時、世界的に広まったルコルビジェの著書
【輝く都市】で言われているような考え方も影響している
と言われています。どういうことかと言うと、
公園の中に建物が存在しているという構図。
つまり建物の敷地面積を減らし、その分階を増やし、
上へ延びて行く事で、周囲の自然環境をできるだけ
確保することができる、という考え方です。
日本の団地もこういう意図のもとに建てられたはず。
この考え方は自然が多くのこされている
ストックホルムに新たに住宅地を建設するにあたって、
受け入れやすい考え方で、建物が緑に
囲まれている環境は好まれました。
(Gärdetエリア。この時期に建てられた典型的なエリアの一つ。
低層とpunkhusが混在し、さらに建物の間に多くの緑地が確保されている)
*写真がみずらいのが申し訳ないのですが…
他にもこのpunkthus型のアパートは遠くからでも
目立つのでストックホルムのいたるところで
見られます。低層のアパートややたら長いアパート
と一緒に建てられていることが多いかも。
いいアクセントになるのかな。
この辺りまでの都市計画は今でも比較的、
批判が少ないように思います。
でもこれでも住宅不足は解消されず
さらに先へと進んで行きました。
前回も少し書いたけれど、この旅行中に
ギリシャの経済危機の影響を感じたことは
ほとんどありませんでした。
暑すぎて、暴動を起せる状況じゃないよ
って冗談を言っていましたが・・・
でも、アテネの街中はいたって普通。
暴動があったシンタグマ広場も
観光客を含め賑わっていました。
ところで、ギリシャ人のイメージというのは
楽天家で怠け者、時間にルーズ
って感じが一般的かな…。
今回の経済危機も、税金の流用、
仕事を怠ける、高額な年金の早期受給等々
ギリシャ人が仕事を真面目にしなかったから
みたいに言われているような気がします。
これはこれで当たっている部分も
あると思うのですが、ギリシャ人全てが
こういう生活をしている訳ではなく、
特に行政に関わっている、ごく一部の人が
したことであり、真面目な公務員もいるし
会社勤めの人は普通に働いています。
(これは日本だって同じような・・・)
税金も納める人はちゃんと納めているだろうし。
それとヨーロッパというのは日本よりも
やっぱり複雑であり、今までの歴史とか
隣国との関係とかがこんがらかっている
問題なんだろうな、とも思いました。
スウェーデンよりも移民の問題は深刻だし。
私は世界史にはかなり弱いのだけど、
ギリシャが栄えていたのは紀元前後の話で
それ以降はローマやらオスマンやらに
占領され続け、正式に独立したのは1800年代。
そしてそれもトルコにギリシャを占領される
事を恐れたイギリス、フランスの援助によって
独立することになった感じらしいのです。
ギリシャまではいいけど、トルコはダメね、
みたいな、ギリシャがEUにいると
都合がいいから、みたいな、
きっと私たちの知らない何かが、ヨーロッパ
の間ではあるのだろうなと思いました。
全然、うまく説明できませんが・・・
一概にギリシャが悪い!とは言えない問題
なのだろうなと言う事は理解できました。
旅行をしてギリシャ人に会って
多少ギリシャ贔屓になっているとは
思うけど、そういう意見がたまには
あってもいいのかなと思いました。
ただ、若者の失業率が高く、国を離れる人が
増えているし、ユーロにとりあえずは
残ることになったものの、今後どうなるのか
気になる話ではあります。
少しでも良い方向にいくといいな。
真夏のギリシャから無事に帰ってきました。
暑かったけど、40度の乾燥したアテネは
30度の湿った東京よりも過ごしやすかったです。
あと、日本みたいに屋内と外の気温差が
激しくなかったから、それもよかったのかも。
アテネの他にSerifosとSifnosという島に行きました。
”南の島のバカンス”という曖昧なイメージは
ここにあった!という感じ。青い空、海、白い砂浜。
島は特に乾燥していて、夏場は植物が成長しません。
昔読んだ、和辻哲郎の「風土」という本の中で
気候が人の性質、文化に強く影響すると言う様な
事が書いてあったような気がするのだけど
こっちに暮らして、色々な場所を訪れる度に
なるほどなーと思う事があります。
週末晴れるか、気温が上がるかどうかを常に
気にしているスウェーデン人と、一週間の
天気予報が全部晴れマークのギリシャ人では
性格が変わってくるよなー、とか。
昔、教科書で習ったことや映画で見た場所
本で読んだ話の背景とか、あ、本当にあったんだ…
と思う事が起こるのですが、今回の
ギリシャ旅行もそんな感じでした。
アテネの古代遺跡アクロポリス。
こういう場所に来ると、松尾芭蕉の
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
という俳句をいつも思い出すのだけど
ここもスケールは違うけれど、そんな雰囲気。
アテネが栄えたのは紀元前数百年という話。
長いながーい時間が流れていて
それでもまだ残っている遺跡とそれを覆う緑。
ありきたりだけど、自分の小ささを感じました。
今、ギリシャは経済危機の問題もあり
あまり良いイメージが持たれていないけど
そんな事は感じないような、楽しい旅行でした。
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プロフィール
HN:
あっこ
年齢:
40
性別:
女性
誕生日:
1984/01/11
職業:
ランドスケープアーキテクト
自己紹介:
ストックホルム工科大学(KTH)での2年間の留学を経て、ランドスケープアーキテクトとしてストックホルムにて働いています。
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